世間は狭い
家から遠い場所にある高校から、今日もぼんやりと、電車の扉横の手すりにもたれながら、家まで帰る。 それは智咲にとって、いつもと代わり映えのしない風景であった。
この電車に乗っている間に見えるものは、ほとんどが地下に通った穴を内側から見ただけの固く冷たいもの。家に近づくにつれて、地上の風景は見えるようになるものの、いかんせん電車から見える風景は次から次へとすぐに変わってゆき、ゆっくりと「風景」というものを見ている気にはなれない。
それでも、智咲には気になる場所があった。
(あそこらへん、散歩に良さそう)
それは、一瞬だけ、山から真っ直ぐに注いでくるように見える川のことだった。 スマートフォンが震えた。 誰が何を送ってきたかと思えば、幼馴染の弥生のSNSメッセージだった。
『暇』
たった一文字。 暇な奴に構っている暇はない。 智咲は、自分より賢い高校に通う弥生が羨ましかった。 ただ、こういう人間性的なところは、嫌いではないにしろ、もう少し自重してほしい。
『いま、下校中。あと、散歩してくるから暇ではありません』
とだけ打って、智咲はスマートフォンを上着のポケットに入れた。 何も気にしないで、ただ散歩にだけ集中したい。そういう意思表示のつもりだ。
知らない駅に降りるのははじめてのことであった。 高校生にもなって、未だに学校や家の最寄り駅以外の駅に降り立ったことがほとんどないというのも、我ながらとんだ箱入り娘だなぁ。 智咲はいつにもましてのんきな気分で、ちょっとした遠出のつもりで、真下にその川が見える駅に降りた。
寒く、風がスカートの間を通り抜ける。 改札口がどこかさえすぐにはわからず、危うく迷うところだった。 まばらな人の流れにしがみつくようにして、慌てて駅の出口を探す。 がしゃん、自販機で温かい飲み物を買う人。 こつこつ、ヒールで歩く若い女の人。 ごとごと、上りか下りかわからないけれど、電車の通りすぎる音。 出口をようやく見つけ、階段を一段下りる度に、色々な音が遠くなっていく。
「わぁ」
ここに降り立った今日だけは、何だか空が綺麗だった。 糸を引くような形の雲が、幾つも幾つも重なって、夕方の光に照らされている。 写真を撮ろうかな、と思って、スマートフォンを取り出そうと上着ポケットに手を突っ込んで、空にフォーカスを合わせようとしたとき、誰か背の高い人と肩がぶつかった。
線路に沿って駅の入り口を通りすぎようとした少年だった。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「いや、いいです」
ほんとに、すみませんでした――と重ね重ね謝ろうとすると、ぶつかった相手から、
「……その制服って、〇〇ですよね」
と、独特の低い声で話しかけてきた。
「え?」
彼の言った言葉は、地名だった。
制服が、地名? 疑問を感じたが、少し考えてみると、それは自分の通っている高校名にも一致していたので、智咲はギクリとした。
見も知らぬ人に、下校中の寄り道を指摘された。そういうことだ。 言葉を失って、智咲はばつが悪そうに下を向いた。 智咲よりうんと背の高い少年は、困ったように頭をかいて、
「いや、何でもないんすけど、あ、その、ストーカーとかじゃないんで」
などと、これまたとんちんかんなことを口走った。 「えっ、ストーカー?」
「あっ、そうじゃないんです、ええ……」
「私、停学でしょうか」
「……えっ?」
「あなたに指摘された通り、私は下校中にここの川を散歩しようと……つまり、寄り道したことになるんですね。あなたが私の通っている高校の名前を知っている、ということは、」
話がお互い噛み合わなくなってきた。
「……とりあえず、どこかに座りましょうか」
智咲は、少年の言葉にうなずいた。
「中学生なの? 年上かと思っちゃったわ」
駅の近くに、丁度ベンチのある公園があった。 そこに座って、川を眺めながら、智咲と少年は落ち着いて話をし始めた。
「はい。僕こそ、そちらのことをてっきり中学生かと思ってしまって……」
「うっ、いいのよ、言われ慣れてるから……」
私の身長を馬鹿にするような人間を一人ほど思い出しながら、智咲はそう返した。 カラスが夕日に吸い込まれるように飛んでいく。 それを合図にしたかのように、少年は打ち明け始めた。
「……実は、そちらの中学に、僕の双子の姉がいるはずなんです」
「あぁ」
「親が離婚して、同じ市内には住んでいるんですけど、全く会う機会もないというか……会わないように仕向けられてるような気までしますね。しかも向こうは、僕と違って進学校にちゃんと通っているし」
だから、話しかけてきたんだ。
中高一貫校は制服がどの学年もほとんど一緒だが、智咲の通っている高校とその中等部とでは微妙に制服のつくりが異なる。 微妙な違いがわかれば中学生か高校生かわかるが、そこまで見ていると思われるとストーカー犯罪者にされる可能性もあることから、彼は微妙な聞き方をしたのである。
そんな細かいこと、気にしていないかもしれないが――そう考えたとき、智咲は、ひとつ、自分の中で思い至ったことがあった。 勝手に理屈をつけて自分で納得する。それが自分の悪い癖だと思いながら、それを色々な人に指摘され続けてもきたのに、全く自分がその指摘を聞き入れたこともなく、成長していないことにも気づいた。
「大丈夫ですか?」
「あっ、ごめんなさい。ちょっと、気づいたことがあって」
「どんなことですか?」
「ええとね。自分でわかってて、身の回りの人に指摘もされているのに直せないことがあったの。でも、今みたいに、全然話したことのない人と話したときに、自分の悪い癖に改めて、いや、むしろ新鮮さも伴って気づき直せたのよ」
相槌を打ってくれる少年もまた、いくらか刺激を受けているようだった。
「なるほど。ところで、その悪い癖って具体的に何なんですか?」
「まあ、今さっきの話では、あなたがどうして私の制服について聞いてきたのかって、自分なりに理屈をつけて勝手に納得してしまったこと」
「そうなんですか。でも、そこまで気を遣って自分の考えを曲げなくてもいいですよ」
少年は、少し遠慮がちに笑ってみせた。
「いやぁ、それが困ることもあってね」
これこそが、正直、私の中の今一番解決しなければならない問題だった。
「教えてください」 「いい? 数学が壊滅的に出来ないの」
「数Ⅰと数Aなら、僕でも教えられますよ」
「うそ。だとしたら、私の弟よりもずいぶん賢いのね」
「いえ……僕、ホントは学校行けてませんから」
その雰囲気から薄々想像はしていたが、改めて聞くと、その言葉の異様さが嫌になるほど際立っているように感じられた。 お姉さんと会いたくても会えないのも、きっとそれが理由だろう。 彼には彼なりに、準備がいると思っている。 それでも、たまたま会えたとしたら……。
「そっか……」
初めて会った人と、ここまで話し込むことがあったろうか。 気づけば辺りは完全に暗くなっていた。 ほとんど駅周辺から動いていなかったので、迷わず駅に着くことができた。
「散歩しに来ていたんですよね。お邪魔してどうもすみませんでした」
「いいえ、いいのよ。ただ散歩するよりは、うんと楽しかったし、たくさん考えたから身になったと思うわ」
「こちらこそ。気を付けて帰ってくださいね」
「ありがとう!」
お姉さんを見つけたら教えるわ――そう言おうとしたけれど、相手方の名前を聞くのをすっかり忘れていた。 ポケットから出したスマートフォンを点けたとき、撮ろうとしてそのまま撮らずじまいになっていたカメラの画面がそのままになっていた。 ついでに、SNSのメッセージ通知も溜まっていて、その全てが弥生からだった。
『は?』
『散歩ってどこだよ』
『おーい』
『駅まで行くぞこの野郎』
弥生、残念だが私は君の彼女ではない。 彼女は私の可愛い後輩、中三で、ばりばり部活もしていて、身長もスタイルも私より何っ倍も可愛い……。
「あ……」
見つかった。
執筆:水瀬 出海